ブログ再開

 例のごとく三日坊主を発動してブログを放置してしまっていたが、ここらで再開しようと思う。俺のことだからまたどうせすぐに中断するだろうが、出来る限りは続けていきたい。

 さて、特に書くネタもないので、とりあえずなぜ何度もブログを中断してしまう羽目に陥っているのかについて考察してみたい。簡単に言うと、大層なことを書こうとして書けなくて挫折しているわけである。考察と言いながら一瞬で終わってしまった。

 はっきり言って考えに考え抜いたり練りに練ったりした文章を書く脳が俺にはないので、好き放題に書き殴る、というスタンスを取るしかないわけだ。ツイッターよりは少し長い文を書き出すと何か自分でも大層な長文が書けるのではないかという浅はかな勘違いをしだすわけだが、さすがにこう何度も繰り返すと自覚せざるをえない。

 とにかく、ストレス解消的な無意味な長文を書き散らすことしか俺にはできないようである。これはもうどうしようもない。「成長とは自分のどうしようもなさに気づいていく過程である」と、誰が言ったわけでもないが、実際にそうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 ということで、こういった無内容な長文を心がけさえしていれば無限に書けるということはわかってきたので、この調子で書けるだけ書いていこうと思う。

 で、ここまででも随分な長文を書いてきたつもりだが、見直すとそんなことは全然ない。根気のなさがとんでもないので、1エントリでできるだけ長い文を書くという意識でちょうどいいのかもしれない。

 そんな一日で複数エントリ投稿したってしょうがない。構ってちゃんを発動してエントリの数の分だけ反応を求めだしてしまうわけ。他人に勝手に何かを期待して裏切られるのは実に悲しいわけ。

 うーん、全然まだまだ長文とはいえない。もうちょっと書くか。まったくもって無内容が続くが、これはもうどうしようもないね。そろそろ終わるか。終わるわ。おサルわ。おサルと終わる、全くもって何もかかっていないし面白くない。それでも字数稼ぎにはなるだろ? って、なんでそんな字数を稼ぐ必要があるのか。まあ、長く書いたほうがそれっぽさが出るかもしれないやん? やん? って関西弁っぽいけど、全然違うかもしれない。

 

 そろそろ終わるか? もう十分か? そうだね。ま、明日も頑張って投稿しますね。がんばれがんばれ。これが軌道に乗ったらnoteに以降して金欲しいね。くれるかなあ、無理か。そんな邪な気持ちで文章書きたくないんだよね。これだけ書くのにどれだけの純粋な気持ちを必要としていたと思ってるの。ピュアもピュア、ピュアモルト飲みてえ、それではさらば。

下書き保存が増えていく

ブログ再開から数日……記事を書いては下書き保存することを繰り返している。とうてい公開する気になれない。

 

まるで内容のない駄エントリを連発した結果、強い後悔の念に駆られている。ブログを始めたり再開したりすると物珍しさから多少は関心が持たれるものだが、そんなものは駄エントリを連発する毎に急速に薄れていくものである。どうしてあんな文章を書いて投稿してしまったのか。

 

 

 そういうわけで下書き保存が増えているのである。きちんとオチのある納得のある記事を書いてみたいのである。そんな記事になりそうな、まるで根拠のない期待が下書き保存を増やしている。

 

ちゃんとした記事になるかもしれなかった文章が、公開ボタンをクリックした瞬間に確定してしまう。とても押せやしない。

 

いつまでも可能性の世界に宙ぶらりんで留まっていたい。現実を確定させたくない。

 

結局そういうことなのだ。何度繰り返したか知れないこれ。しかしこのままでは宙ぶらりんなまま下書き保存を無数に増やしていく結果となり、やがては下書き保存すらしなくなる。そしてしばらくしたらまた再開するのである。そんなことは繰り返してはならない。

 

駄文製造機ならばそれでいいじゃないか。本当に良いのかなんでわからないが、駄文を書くか、何も書かないかの二択なら書く方を選ぶのがブロガーじゃないのか。そう、私はもはやブロガーなのである。今がブロガー魂を見せつける時だ。

 

公開ボタンを押せ、押すんだ。下書き保存に逃げるな。オチがなくとも、勇気を振り絞って押すんだ。

 

ああ、押せない。とても押せやしない。また駄文を書いてしまった。どうしよう。全部消そうか。消したら楽になれる。しかしそれじゃまた繰り返しだ。

 

何かないか、オチ、オチはないか。オチさえあれば公開が出来る。何処かにオチが落ちてはいないか

 

……なんてこった。なんてことを書いてしまったんだ。

 

「オチが落ちてはいないか」

 

思いついてもこんなことは書かない……やってしまった。しかしいいんだ。書くしかない。やってしまったことは取り返しがつかないんだ。オチなんて気にするな。なんでもいいから公開しろ。

 

次からオチをつければいいじゃないか。いつかオチが落ちてくる日も来るさ。

 

今思ったのだが、「可能性の世界に留まって宙ぶらりん」は打倒しなくてはならない。

とにかく格好つけるな。格好をつけてはいけない。格好よくないものが格好つけてどうする。

 

あ、1000字になった。終わり。次こそオチをつけるぞ。

ビブリア古書堂の事件手帖の店主巨乳すぎからくる実写化の困難問題

ビブリア古書堂の事件手帖という小説をご存知だろうか。

 

 

 

これである。

内容は、美人で巨乳で読書狂の古書店主が本にまつまる事件を解決していくミステリである。主人公である若い男性店員と古書店主との淡い恋愛模様も描かれ、大ヒットした。当然シリーズ化され、私も四冊目くらいまで楽しく読んだ。ちなみに表紙はこのような感じだが、挿絵はない。いわゆる一般小説とラノベの間くらいの昨今よくある形式のものである。

 

ヒットの要因は様々あるだろうが、やはり古書店主の現実離れした読書好きのオタクにはたまらないビジュアルは大きいだろう。眼鏡で色白で美人で、そしてとてつもない巨乳。はっきり言ってエロゲのヒロインであろう。大人気になるのも当然であり、元エロゲオタクの私も大好きである。

 

さて本題であるが、このシリーズは大ヒットしたので当然映像化された。ファンタジー描写がほぼない現実世界を舞台としたものなので、実写である。

 

まず2013年にフジテレビで放送されたドラマであるが、主演は剛力彩芽

 

 

 こんなんですね。ちなみに私は一話も見ていない。アマゾンレビューの評価を見ると、どうも内容は良かったようである。

しかし放送当初は主演の剛力彩芽に難癖をつける向きがあった。理由はあまりに小説の古書店主と剛力彩芽のイメージが違いすぎたからであろう。小説はロングヘアーなのに対し剛力はショートヘアー。さらに剛力彩芽のイメージとして読書好きの古書店主というのとかけ離れすぎたということがあるのだろう。しかしまあそんなものは些細なことである。問題は巨乳か否か、であろう。いや、そんなんではないかもしれんが、私としては巨乳だったら確実に見ていたのになあと強く思った。巨乳じゃないのかよ、と。だってビブリア古書堂といえば巨乳なのである。

 

まあそんなものとは関係なくドラマとしては面白いし剛力彩芽も好演しているようなのでみなさん見ましょう。

 

さて時は流れて。「ビブリア古書堂の事件手帖」は満を持して映画化された。今調べてみるとなんと公開日は明日である。全く下調べをしないで書き出しているので完全なる偶然であった。なんとまあ。

biblia-movie.jp公式サイトはこちら。

 

さてこちらの主演女優は黒木華。演技派若手女優として極めて高い評価を得ている。私も山田洋次監督の映画「小さいおうち」に出演しているのをを見て以来好きである。黒木華は読書好きに見えるし、若くて美人の古書店主のイメージにぴったりである。きっと良い映画だろう。

しかし巨乳ではない。少なくとも原作キャラほどの巨乳ではない。これは事実である。

 

そこで思うのだが、「ビブリア古書堂の事件手帖」の古書店主を忠実に演じることが出来る女優であのレベルの巨乳というのは日本に存在するのだろうか。いない気がする。

 巨乳なんかどうでもいいといえばどうでもいいのかもしれないが、原作的には巨乳というのは重要な要素だろう。だって表紙には毎回巨乳が描かれているのだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや、改めて表紙を見てみると現実的な巨乳な気がしてきた。ここまで書いといてなんだが、イメージほどの巨乳ではなかった。あの巨乳はどこへ行ったのか。

 

それはさておき黒木華主演「ビブリア古書堂の事件手帖」はきっと面白いのでみんな見に行きましょう。

ブログ更新成功

なんと本の内容に入る前に著者の紹介をしただけで大層くたびれてしまった。こういう何かの紹介文というやつは間違いがあったらいけないと思ってあまり適当すぎてどうかなという思いがあり、大変である。しかしなんとかブログの連続更新はできそうである。こう書いておくと評判というものが気になるのが人の常だが、それはブログ更新失敗の前兆だろう。適当に書いているのだから運良く読まれただけで儲けもの、あわよくば評価してもらおうなんてものは盗っ人猛々しいというものである。

 

書き散らしているのはツイッターと変わらないのにブログのほうがなんとも体裁が気になる。とても体裁が気になっているブログにはなっていないが、なんとかしようとするかどうかは置いておいて、気にはなっている。

 

ツイッターは架空の人格の立ち上がってくるところであり、ブログはまた別の人格が立ち上がってくる。フォーマットが変われば人は変わる。ブログもすぐに投稿できるが、ツイッターほどではない。ツイッターはそれこそ理性が働く前に投稿ボタンを押してしまうのに対し、ブログはそれよりは少しは理性が働くだけの間がある。だからこそなかなか投稿しなくなってしまうのであるが、一年も放置していておいてなんだが、このフォーマットは心地よい。少しは言いたいことも湧いてくる。

 

ブログのツイッターに比べての居心地の良さは何かというと、TLというものがないところである。他人のツイートを見ながらツイートしているとどうしても引きずられるが、ブログを書いていれば自分の文章しか目に入ってこない。この違いは大きい。さらにツイッターでは自分のツイートは他人のツイートと並んで表示される。つまりそれぞれのTLの文脈に勝手に組み込まれてしまうわけだ。そりゃ意図しない伝わり方が頻発するのも当然である。

 

ブログ三日坊主経験豊富な自分がブログを続けるコツを考えてみると、推敲をあまりしないことが重要であるように思える。人様から金を取っているならまだしも、ただの趣味である、そんなに気にすることはない。ツイッターミニブログと呼ばれていたのと同様に、所詮はロングツイッターにすぎない。文章の構成なんか気にしだしたら七面倒臭くなってやめるに決まっている。

 

そろそろ1000文字くらいになりそうなので終わる。これも続けるコツであろう。これ以上書くとただの駄文に実際以上の価値を感じ初めて、反応を求めるようになるし、そうなったら終わりであろう。

読書感想文 その2 辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦 2

なんと前回の読書感想文では二人いる著者の片方について書いたら終わってしまったんである。未だ感想に至らず。高野秀行についてちょっと書いたとこで終わったので続きは清水克行についてである。

 

歴史学者の清水克行、これまた面白い本を出しているんである。

 

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

 
日本神判史 (中公新書)

日本神判史 (中公新書)

 
耳鼻削ぎの日本史 (文春学藝ライブラリー)

耳鼻削ぎの日本史 (文春学藝ライブラリー)

 

 「喧嘩両成敗の誕生」は立ち小便を笑ったことから金閣寺と北野社が全面戦争に発展しそうになるエピソードからはじまる、日本中世がいかにヤバかったかを書いている本。「日本神判史」は中世日本で行われた熱湯に手を入れたり熱した鉄を触ったりする裁判についての本。

「耳鼻削ぎの日本史」はタイトルそのまま。

 

というように、日本中世でも歴史的大事件というよりはちょっと変わったテーマについて書いている歴史学者である。

 

この二人が対談するのだからそりゃ面白いものにもなる。次回へ続く。

読書感想文 その一 辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦 1

 

 今日は試しに読んだ本の紹介と感想を書いてみようと思う。

 

題名は「辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦」

 

とりあえずこの本の概略について説明しようと思うのだが、ググればよりちゃんとした詳細が出てくるのに私が紹介する必要はあるのだろうか。あるか。自分のブログだし。こういうところめんどくさがっちゃいかんね。

 

えーと、本の紹介って何から書くんだ? あー、まずは著者の紹介からか。

 

著者は歴史学者の清水克行とノンフィクションライターの高野秀行の二人である。

それぞれが選んできた本を読んできてその本について語り合う、という、つまりは読書会を収録したものである。うん、こんなもんでいいか。

 

なぜ歴史学者とノンフィクションライターが対談本を出しているのか。実はこの本は二人にとって二冊目の対談本であり、まあもちろんググりゃすぐにわかるんだけど説明しておくと、「世界の辺境とハードボイルド室町時代」という本が最初の対談本である。タイトルはもちろん村上春樹のあれのもじりだろうが、もちろん私は読んでない。

 

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

 

 この本。これもソマリア人と中世の日本人との類似点から話が始まり、ディープな話があっちゃこっちゃ行ってメチャメチャ面白い。

 

なぜソマリア人なのか。高野秀行ソマリアに行ってディープに取材した本がまずあるんである。ソマリア、一般的には海賊で有名なあそこである。まあ海賊で有名なのはソマリアの中のプントランドって国なんだけど、そこらへんは

 

 

この本を読むとよくわかる。これもオススメ。

高野秀行ソマリアに実際行って戦闘に巻き込まれたり、東南アジアのアヘンを栽培している村に潜り込んでアヘン中毒になったりしている。とにかく凄い人である。

 

ここで気づいた。千文字くらいで収めようとしたのにもう超えてしまった。こりゃいかん。しかも全く本の感想を書いていない。これはいかんですなあ。反省。次回へ続く。

続・ブログを再開する

前回の記事は肩慣らしである。とにかく文章を書くのが苦手なんである。なので、「である。」調にすることによって気分だけでも出しているんである。

 

ところで江戸時代の文語文というのは「~候(そうろう)」で終わるという定型を持っていた。例えば「おなかへった」も「おなかへったで候」と書くだけでグっと引き締まるんである。この「である」も似たようなものといえる、である。

 

さて文章はさておき、ブログを書くのがなぜ難しいか。私が最近目にするブログは何かしらちゃんとテーマを持っている。最近で言えばツイッターで話題になった献血ポスターについての考察など。これはツイッター発の話題であるが、ブログ記事になると凄く明晰に分析や説明したりなど、すこぶるたまげる。こんなことは私には到底無理である。

 

あるいは本、漫画、映画などの感想、考察、など。これも難しい。なぜかというと私は何を見ても人様に披露するような感想なぞまるで浮かばないんである。「すげー」「全米が泣いた」「やばい」など、映画の宣伝CMに出てくる素人以下の感想しか浮かばないんである。例えば大ヒット映画の「天気の子」の感想は「都会ではエロゲみたいなことやってる一方で田舎では牛が流されてるんだろうなあ」くらいのもんである。

 

まあそういうのも感想は感想なのだが、どうも自分を無根拠に過大評価しているところが未だにあり、この私が作品を見てこんな陳腐な感想しか浮かんでこないなんかありえない、などという妄念に囚われ、何も言えなくなる。

 

ここでブログが書けない理由に気づいた。つまり承認欲求のせいである。すぐさま大した事を言って人様から反応をもらいたがるこの浅ましい性根のせいである。

 

はっきり言ってこんなブログは誰のためでもない、自分のためのもののはずだろう。自分が書きたいことを書いて満足すればいいのに他人に良く思われたいという思いがムクムクと勃起するせいで書けなくなるんである。

 

何事も慣れであり、才なき者は慣れるしかない。そして数撃ちゃ当たる。当たらんでも自分なりに満足がいくものが自分の中から出てきたらそれで良いのではないか?

 

ということで次回は本の感想を書いていく。

一応の本はこれ。

 

 

こんな便利な機能があるの知らなかった。